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※西巣鴨界隈の略図は、このページの最下部にあります。

大都映画巣鴨撮影所跡
豊島区西巣鴨4−9−1

白山通りに面した旧・朝日中学校(現在は統合されて、巣鴨北中学校)のある場所にはかつて、映画の撮影所があった。
大正8年(1919年)に、天活(天然色活動写真株式会社)が開設してから、国活(国際活映株式会社)、帝国キネマ、河合映画、大都映画と持ち主が代わり、昭和17年(1942年)まであった。特に昭和3年から15年間の河合・大都映画時代は、年間約100本、1325本の映画がここで製作された。ほとんどは無声映画で、阿部九洲男、水島道太郎、杉山昌三九、琴糸路、東龍子、大河百々代、アクションスターハヤブサヒデトなどのスターが活躍していたが、昭和17年の「宮本武蔵決戦般若坂」が最後の作品となり、大映に吸収された。
白山通り沿いの塀に撮影所を記念したプレートが何枚か飾られている。

現在、この場所は区民のためのスペースとして様々な行事などに使われている。
 
千川上水公園
豊島区西巣鴨2−39−5

千川上水公園は、豊島区のなかでもっとも古い公園で、開園は昭和15(1940年)年5月、面積は1020.72u。

明暦の大火(1657年)(本サイト本妙寺を参照)を契機にした江戸の拡張に伴い、飲料水の確保のために青山、亀有、三田、千川の4つの上水が開発された。千川上水は、元禄9年(1696年)に玉川上水を保谷村(保谷市新町)で分水したもので、そこから巣鴨村まで22kmの堀割を開削し、巣鴨の溜池からは木管を通して小石川、本郷、上野、浅草などの地域に給水した。その頃、老中柳沢吉保は広大な六義園(本サイト六義園を参照)を作っており、そこにも千川上水の水が引き入れられていた。しかし、上記4上水は、享保7年(1722年)に突如として廃止され、以後は千川上水が一時再開されたのを除き、農業用水として利用された。

明治に入って、千川用水は王子に設立された抄紙(しょうし)会社(後の王子製紙)や紡績工場・大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)の工業用水などに利用されていたが、明治13年(1880年)に岩崎弥太郎らが設立した千川水道会社によって、再び「上水」として利用されるようになり、小石川区、神田区、本郷区、下谷区、浅草区などに供給された。この水道会社は明治41年に解散したが、上水の水はその後も昭和45年まで板橋浄水場を経由して、飲料水として用いられた。

現在の千川上水公園は巣鴨の溜池の跡地にあり、旧中山道と明治通りの交差点を堀割と呼ぶのも、その名残りである。また、明治15年に建てられた千川上水分配堰の碑は、この地点で上水が滝野川方面と六義園方面に分流されていたことを示している。現在、上水は都心部ではほとんど暗渠となっているが、かつて流路であった千川通りと青梅街道の交差部(練馬区)から西は、平成元年より開渠となり、水辺の環境整備が行われている。
 
千川上水分配堰(ぶんぱいぜき)碑
北区滝野川6−9−1
※千川上水公園の道路を隔てた反対側にあるので、所在地が北区。

「千川上水分配堰」(せんかわじょうすいぶんぱいぜき)の碑は明治15年(1882年)7月に設置された。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれている。これにより取水量が定められていたことがわかる。

千川上水は、元禄9年(1696年)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠(あんきょ)となってしまった水路である。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていた。この分水路は、慶応元年(1865年)11月、飛鳥山の西側(滝野川2−6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開削されたものである。

明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ケ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙 会社・大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水として利用された。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになった。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守するために、碑をここに設置した。
 
延命地蔵
豊島区西巣鴨2−33

中山道で行き倒れた人や馬の供養をするために建てられた(元禄11年・1698年創建と伝えられる)もので、当初は都電荒川線・庚申塚駅の近くにあったが、都電の前身の王子電車ができる時に一度移転し、その後の二度目の移転で現在の地に移ってきた。

延命地蔵の下からは、人や牛馬の骨が桶に3〜4杯分も出てきたそうで、これらは現在、池袋の重林寺(池袋本町2−3−3)に埋葬されている。

狭い境内には、5つの石塔が建っている。「延命地蔵尊」を中央にして、左側には「庚申塔像塔」と「馬頭観音塔」、右側には「徳本名号塔」と「南無妙法蓮華経の題目塔」がある。延命地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、人々の苦しみや悩みを救ってくれるといわれる。
 
明治女学校跡
豊島区西巣鴨2−14−11

女子高等教育の草分けである明治女学校は、明治18年(1885年)、キリスト教信者でアメリカで13年間学んだ木村熊二(1845年〜1927年)・鐙子夫妻らによって麹町に創立された。島崎藤村、北村透谷などを教師に招くなど、一時は隆盛を誇ったが、火災により校舎を失い、明治30年(1897年)に巣鴨村庚申塚に移転した。麹町時代には、自由学園の創始者羽仁もと子、新宿中村屋の創始者相馬黒光、庚申塚時代には作家の野上弥生子らが学んだ。

教育方針は「暗記より読むこと」、「読むことより考えること」ということで、学内は自由で清新な気風に満ちていた。移転後の校舎は「広いクヌギ林の中の二階建のコッテージ風の洋館」(野上)で、当時日本唯一のスコットランド風建築だった。この頃の学科は政治、社会、経済、哲学、国際公法、審美、憲法と多岐に渡り、また道場では剣道、薙刀、柔道、校庭ではテニス、クリケットが盛んだったといわれている。明治女学校はその後、移転費用が財政を圧迫したほか、生徒数の減少で経営難に陥り、明治41年廃校を余儀なくされた。現在女学校の跡地には、豊島区の高齢者のための複合福祉施設「菊かおる園」が建っている。

巣鴨時代の校長は巌本善治(1863年〜1942年)、その夫人は「小公子」の訳者・若松賎子、孫に当たる巌本真理は著名なバイオリニストだった。(本サイト染井霊園およびフォトギャラリー・染井霊園参照)
 
大日堂
豊島区西巣鴨2−15−8

大日堂は、徳川幕府二代将軍秀忠とその夫人に仕えた春海和尚により、承応2年(1653年)に建立されたものであり、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。

春海和尚は、湯島天神下にあった平等山真如寺宝性院の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えていた。秀忠とその夫人の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行なったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したといわれる。

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フォトギャラリー・西巣鴨周辺
本妙寺
フォトギャラリー・本妙寺(遠山の金さんの墓)
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